音楽を聴くには、通常2通りの方法がある。生演奏を聴く方法と、録音を再生して聴く方法である。本稿では、この二者から聴き取れる音楽の特徴を通して、音楽の本質について考察した。なお、クラシック音楽を対象としている。
まず、生演奏では、楽器の音色や歌声などを直接的に聴くことができる。録音技術が発明されるまでは、音楽を楽しむ唯一の手段であり、視覚的効果もあいまって大きな臨場感を満喫することができる。表現に一貫性や持続性が生まれるが、演奏者のミスなど不慮の事故も起こりうる。演奏会で音楽を聴く楽しみは、何が起こるか分からない危険性から生じるものであろう。ただし、演奏するホールによって音響が大きく異なる。同じホールでも座席によって演奏の聴こえ方は異なる。ホール内のすべての聴衆に、等しく同じ演奏を聴かせることは不可能である。
生演奏を敬遠した音楽家で有名なのは、ピアニストのグレン・グールド(1932〜1982)である。彼は、演奏会という制度を嫌い、演奏会に集まる聴衆は闘牛場にいる観衆と同じで、演奏者のミスを期待していると考えた。また、演奏会は一世紀もたてばもはや存在せず、コンサート機能は電子メディアに取って代わられると考えていた。1964年にドロップ・アウトを宣言し、以降録音のみによって演奏を発表し続けた。
録音の発明は、音楽の本質を変えたとされる。演奏方法、音楽の聴き方、作曲手段などに大きな影響をもたらした。レコードからCDに録音媒体が変わり、音質の向上、コンパクト化、長時間収録、選曲機能の付与など極めて扱いやすくなった。安価での販売やポータブル再生機の普及を受けて、接する機会が多くなっている。録音された音楽は、いずれも過去に演奏された音楽の再生である。録音された音楽の長所は、完成度の高さにある。編集(修正)が可能であるため、事前に演奏者がチェックし納得したうえで、送り出すことができる。生演奏ではなし得なかった偶然性や妥協性の排除が可能になった。
しかし、録音にも問題がある。まず再生装置の問題である。CDの再生は、オーディオ機器のメーカーや機種によって変わる。スピーカーの位置によっても変わる。聴き方が聴き手に委ねられていると言えよう(グールドは聴き手が音量を自由に操作し、演奏解釈を行ってもよいと考えていた)。すでに亡くなった演奏者の放送録音のリリースでは、そもそも演奏者が許可した音源なのか疑わしく、マスタリングにおいても演奏者の意見が反映されることはない。演奏者の意図しない録音が流通しており注意が必要である。
録音を敬遠した音楽家で有名なのは、指揮者のセルジウ・チェリビダッケ(1912〜1996)である。一部の録音を除いて、もっぱら演奏会のみで活動した。彼は、音楽は一回限りのもので、人生と同じでもう一度再生することはできない。録音は演奏の一回性を破壊するものであると考えた。彼以外にも、指揮者のエイドリアン・ボールト(1889〜1983)、ピアニストのアンドレ・ワッツ(1946〜)は、つぎはぎだらけで構成された録音は認めない意向を示した。
音楽を聴くにあたっては、それぞれの特徴や条件を念頭に入れておくことが重要になる。聴き手の耳に届くのは、生演奏でも録音でも加工された音楽であって、演奏者が音楽を百パーセントコントロールするのは不可能である。CD時代になり、「音」を聴いて「音楽」を聴かない人が増えたと言われる。「レコード批評をする自信が余りない」(音楽評論家・遠山一行氏「私はなぜレコード批評を書かないか」)という考えもあるが、演奏者の意志として何を聞き取るのかが聴き手にとっては極めて重要である。
参考文献
・『遠山一行著作集第3巻』 遠山一行著 新潮社 1987年
・『グレン・グールド著作集2 パフォーマンスとメディア』 グレン・グールド著 野水瑞穂訳 みすず書房 1990年
・『カラヤンとデジタル : こうして音は刻まれた 改訂版』 森芳久著 ワック 1998年
・『レコード芸術』1999年9月号 音楽之友社 1999年
以上