映画批評
ヴィデオは映画研究をどう変える?

四方田犬彦が1998年に書いた文章である。このなかでは、ヴィデオの普及にともなって映画史の研究がようやく可能になり、ショット分析などに見られる具体的な批評が増加したことを述べている。
ヴィデオの普及で、映画を批評する環境は大きく前進した。淀川長治も「りっぱな生きた教科書」であり、「映画史上の一大事件」と述べている。映画批評にとってこれほどまでに恵まれた時代はかつてなかっただろう。以前は映画館でノートにメモを取りながら映画を観ていたが、映画のストーリーや画面構成をなにもかも記憶する必要がなくなった。精神的には気楽に映画を観ることができるようになったと言える。「細部を具体的に見つめることから、批評を開始しなければならない。」と著者は述べているが、好きなときに、しかも繰り返し映画を観られるようになったことはすばらしい。
現在はヴィデオに代わってDVDが主流になった。映画公開からDVD発売までの期間も短くなり、わざわざ映画館に足を運ばなければならない必要性は薄れた。DVDで発売されている映画も増え、驚くべき安価で多くの映画を楽しむことができる。また、インタビューなどの特典映像や未公開シーンが収録されるなど、映画にない充実した付加価値が多くつけられるようになった。一方で、テレビ番組のDVD化も進んでいる。映画とテレビの連続ドラマを区別する要素が薄れてきたと言える。実際、テレビで人気を博したシリーズドラマが映画化されていて、映画との違いは、短いか長いか、途中でコマーシャルが入るか入らないか程度である。映画の独自性を語るのが難しくなってきたと言えよう。
DVDで繰り返し観られるようになった映画だが、近年では、多くの映画館で入れ替え制が導入されている。映画館で上映されている映画は、以前は何度でも観られたのに対して、一回しか観られなくなった。映画は繰り返し観るものではなく、一回で楽しむ内容に変化しつつあるのかもしれない。また、映画に関する関連情報も圧倒的に増えた。予告編や新聞記事、ホームページを見れば、映画を観る前に展開がある程度分かってしまう。観客を映画館に呼び込むためにあの手この手を尽くしているのだろうが、事前に積極的に情報を収集しないほうが映画を楽しむことができると思う。第一印象のインパクトが薄くなってしまうからだ。
ヴィデオやDVDは、映画の観かたを変えた。私たちと映画との距離は確実に短くなった。あとは、私たちが映画をどのように受け入れるかである。インターネットの発達で映画批評の数は爆発的に増えた。ただし、数は増えても、質という点では二極化が進んだ。初心者はホームページや掲示板で映画について発言する場が与えられたが、映画に対する期待度と実際に観た印象が合致したかどうかなど印象批評を長々と進めているものが多いのが現状である。
映画を観る前に映画の情報を簡単に入手できる現在にあっては、それらの情報に左右されず、映画を観て感じたことを素直に書くことからはじめなければならないだろう。周囲の一般的な評価にとらわれず、感じたことを具体的に論じていくことが必要である。また、著者が「名もないフィルムに言及してこそ、日本映画がどのように発展し、変化をとげてきたかを理解することができるのだ。」と述べているように、先入観にとらわれず、優劣をつけず、映画を幅広く観ておくことも欠かせない。例えば、日本アカデミー賞の部門として分類されているように、作品、監督、脚本、男優、女優、音楽、撮影、照明、美術、録音、編集のそれぞれに着目して述べるのと奥深い批評が期待できる。ストーリー重視の批評にならないよう、またテレビにはない映画の魅力を発見し、指摘することが必要である。ユニークで、説得力のある内容になっているかどうかが、批評の質を決定的に支配する。

参考文献
・『最後のサヨナラ、サヨナラ、サヨナラ』 淀川長治著 集英社 1999年
・『日本映画史100年』 四方田犬彦著 集英社 2000年
・『アジアのなかの日本映画』 四方田犬彦著 岩波書店 2001年

以上

2005.1.26記